大正末から昭和二十年までの、およそ四半世紀にわたる学習院輔仁会音楽部の物語をたどります。『学習院輔仁会音楽部五十年史』(1973年刊) を底本に、エポックとなった出来事を中心に再構成しました。
この記事は生成AI(Anthropic Claude Opus 4.7)を利用し作成しています。
はじまりは、たった三、四人の集まりから
物語は大正十年の春、目白の学習院キャンパスで偶然に集まった三、四人の学生が、楽器を手にして合奏を始めたところから始まります。当時の日本ではまだ西洋音楽は「子女の遊芸」と見なされ、いわゆる「乃木式」と呼ばれた質実剛健の硬派からは、軟弱なものとして冷たい目で見られていました。それでも音楽を愛する若者たちは集まり続け、翌大正11年(1922年)6月10日、目白の学習院内にある図書館で第一回演奏会が開かれます。これが、学習院輔仁会音楽部の事実上の誕生日とされています。
この第一回演奏会の指揮台に立ったのは、後に日本の洋楽界を切り拓くこととなる近衞秀麿でした。オーケストラのメンバーには、その実弟の近衞直麿や水谷川忠麿の名も並びます。プログラムには中学一年生による唱歌、ピアノ独奏、クラリネット二重奏、そして管弦楽によるベートーヴェンの「トルコ行進曲」までが並んでおり、まだ学芸会的なにぎやかさを残しつつも、確かに「学生オーケストラ」と呼べるものがそこに立ち上がっていたのです。
関東大震災と、文芸部からの独立
誕生まもなく、音楽部は大きな試練に見舞われます。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災です。世の中は騒然とし、社会的にも軍部が力を強めていく予兆に満ちていました。音楽部の活動はかろうじて続いていましたが、輔仁会雑誌への報告すら途絶えがちで、実態としては「演奏会のたびに人を集める」程度の緩やかな集まりだったようです。

それが大きく変わったのが大正14年(1925年)です。この年、音楽部は文芸部の一部門という立場から正式に独立し、初代部長に小松耕輔を迎えました。名実ともにひとつの団体として「元服」した瞬間です。年間予算は四百十八円。野球部や庭球部の三分の一にも満たない、ささやかなスタートでした。
参考:小松耕輔WEB音楽堂 (公式サイト)
多彩な試みの大正十五年
独立から一年、大正15年(1926年)になると活動は一気に多彩になります。陸軍戸山学校軍楽隊を学習院グラウンドにのち、その縁で戸山学校を見学し、ベートーヴェンの田園交響曲などの本格的な練習を間近で体験。音楽評論家田辺尚雄による「楽の組織的傾向と東洋音楽の世界」の講演会も開かれました。聴かせるだけでなく、学生たちに音楽を理解してもらうこと ― 部の方針が明確になったのもこの頃です。

そしてこの年の暮れ、音楽部は二つの「冒険」をやり遂げます。一つは馬術部のポロ試合における吹奏楽の演奏。すぐ近くに戸山学校軍楽隊がいるにもかかわらず、学習院内のイベントに音楽部が呼ばれたという事実は、部の実力が学内で公に認められた証でした。もう一つは日東蓄音機会社でのレコード吹込みです。吹奏楽の「スペアミント」「ブライダル・コーラス」と、弦楽四重奏でチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」を吹き込み、予約販売までこぎつけ、その売上で楽器を購入してしまうあたりに、当時の部員たちの商才と意気込みが感じられます。
瀬戸口藤吉の登場 ― 本格コンサートへ
昭和2年(1927年)、大正天皇の崩御を受けて学習院全体が喪に服し、音楽部の活動も一時的に止まります。再開と同時に部は大きな転機を迎えました。多忙となった小松耕輔部長が退き、新たな指揮者として、「軍艦行進曲」の作曲者として知られる海軍軍楽隊の重鎮瀬戸口藤吉を迎えたのです。

瀬戸口は「平易な曲よりも、むしろ難曲のほうが音楽の本当の面白さを知ることができる」と主張し、学生たちにハイドンの交響曲、ベートーヴェンとモーツァルトのピアノ協奏曲、ビゼーのアルルの女などを次々と課しました。練習は「野球部以上」と評されるほどの厳しさで、それまでの学園祭風の演奏会から、本格的なコンサートへと一気に脱皮していきます。
この時代の演奏会で独奏を務めた人物の中には、後の香淳皇后陛下の弟君である邦英王殿下(のちの東伏見慈洽氏) がおられ、リストのハンガリアン・ラプソディなどでその腕前を披露されていました。また、ピアノ独奏で「花のうた」を演奏した中等科三年生の山田和男少年は、のちに日本を代表する指揮者山田一雄として大成する人物です。
参考:行進曲「軍艦」について | 海上自衛隊東京音楽隊(外部サイト)
危機からの五十周年記念演奏会
昭和3年(1928年)、主力部員が一斉に卒業し、音楽部は最初の危機を迎えます。それでも当時の部員たちは、演奏会のたびに音楽学校から助っ人を雇う「トラ方式」を頑なに拒み、「下手であっても学生が自分たちで奏でる音楽会」であることに誇りをかけました。

そんな中で迫ってきたのが学習院創立五十周年記念事業です。参加するだけの実力が足りないというジレンマの中、部が選んだ道は「徹底した基礎練習」でした。この年、新たに技術指導者として迎えられたのが、新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)の第一ヴァイオリン奏者だった棚池慶助です。アンサンブルは瀬戸口、個別練習は棚池という二段構えで、夏休みは二日に一度の激しい稽古が続きました。
そして昭和3年(1928年)10月20日、五十周年記念演奏会が本院正堂で開かれます。曲目は、ベートーヴェンの交響曲第一番、メンデルスゾーンの結婚行進曲、邦英王殿下の独奏によるモーツァルトのピアノ協奏曲「戴冠式」。会場には九百人の聴衆が詰めかけ、大成功を収めました。作詞は高等科3年の林道雄、作曲は瀬戸口藤吉による「五十年紀念歌」が誕生したのもこのときです。
参考:鯖江の音楽文化の父 | めがねのまちさばえ 福井県鯖江市(外部サイト)
第一次黄金期 ― 棚池慶助の時代
世界恐慌が日本にも押し寄せ、街には不景気の風が吹いていた昭和6年(1931年)。それでも音楽部は着実に力を蓄え、ついに第一の黄金期を迎えます。
この年、瀬戸口藤吉が高齢を理由に指導を退き、棚池慶助が指揮者として正式に就任。新交響楽団との合同練習・演奏の機会も得て、オーケストラの実力は飛躍的に向上しました。そして昭和6年(1931年)11月12日、ついに皇后陛下の御前でオーケストラを演奏する栄誉にあずかります。
戦後長らく音楽部の部長を務めた林友春が「昭和七、八年頃、棚池氏を迎えるに及んで実力がにわかに向上し、学習院の音楽部が斯界にも知られるようになった」と記しているとおり、この時期こそ部のあり方が大きく変わった画期でした。
戦火の中で ― 鳴り続けた弦と、救われた楽器たち
やがて時代は戦争へと突き進みます。満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争。多くの学生サークルが活動の継続を断念していくなかで、輔仁会音楽部はそれでも演奏をやめませんでした。
戦時中も演奏は絶えることなく、空襲警報下でも奏楽が続けられた。
空襲が激しさを増すと、音楽部は最後の試練に直面します。空襲で、楽譜はすべて灰となってしまったのです。しかし、このとき部員と門衛の人々が必死の働きによって、多くの貴重な楽器が救われたと伝えられています。この瞬間に救い出された楽器たちが、戦後すぐにオーケストラを再起させる土台となりました。
そして、戦後へ
昭和二十年、敗戦。焼け跡の中で、輔仁会音楽部はいち早くオーケストラを復活させます。やがて女子学習院との合併によって混声合唱が生まれ、大学・短大の設置とともに合唱団が次々と編成されていきますが、それはまた別の物語です。
この音楽部から、戦前から戦後にかけて、日本の音楽界を背負って立つ多くの人物が育っていきました。指揮者・近衞秀麿、音楽評論家・京極高鋭(創立メンバー加藤鋭五その人)、同じく評論家有坂愛彦、指揮者山田一雄(中等科の和男少年)、前田幸市郎、岩城宏之、福田一雄 ― いずれも、戦後の日本楽壇を彩った人々です。
「子女の遊芸」と笑われた時代に始まり、震災と戦火を越えて鳴り続けた目白の音楽。その響きは、戦後の音楽部、そして現在へとまっすぐにつながっています。

出典: 古川和 編『学習院輔仁会音楽部五十年史』(学習院輔仁会音楽部、昭和48年) より、第一部「戦前篇」および巻頭言(林友春・部長)を要約・再構成しました。
学習院輔仁会音楽部五十年史 主筆について

古川 和(ふるかわ こたう)
昭和13年(1938年)1月9日生、東京都出身。昭和37年(1962年)学習院大学政経学部卒業。毎日新聞東京本社に入社、労働組合委員長、大阪経済部副部長、東京本社生活家庭部副部長を歴任し、本社編集員。
学習院輔仁会音楽部では、昭和35年(1960年)度委員長を務め、混声合唱団および男声合唱団に所属、主にセカンドテノールを担当していた。同年の混声合唱団責任者は細川護輝(近衞忠輝)。
主な著書
- 『くたばれ悪徳商法: クレジット社会の虚構』日本経済評論社、1988
- 『円切上げと日本経済』毎日新聞社
- 『新聞を味方にする方法』日本経済評論社、1989
ほか
『現代全日本紳士録:全国編1989年版』より引用
参考文献
底本
- 学習院輔仁会音楽部五十年史. 学習院輔仁会音楽部. 文洋社. 1973, 164p.
参考文献
- 学習院史 開校五十年記念. 学習院. 秀英舎. 1928, 568p. 国立国会図書館デジタルコレクション. https://dl.ndl.go.jp/pid/1464150 (参照 2026-04-28)
- 学習院百年史. 学習院百年史編纂委員会編. 第二編. 1980, 576p.
- 加藤耕義.音楽部の歴史と今(学習院輔仁会音楽部の歩み).学習院広報 第70号.2003-7-01, p. 34-35
- 学習院輔仁会音楽部OB会男声合唱団 編. 学習院輔仁会音楽部 大学男声合唱団史1952年~2007年. 2007, 116p.
- 古川隆久. 戦争と音楽 京極高鋭、動員と和解の昭和史. 中央公論新社. 2025. (中公選書156)
参考サイト
- Wikipedia 寄付について
- 小松耕輔WEB音楽堂 (公式サイト)
- 学習院大学硬式野球部 (公式サイト)
- 学習院大学硬式庭球部(公式サイト)
- 行進曲「軍艦」について | 海上自衛隊東京音楽隊(外部サイト)
- 鯖江の音楽文化の父 | めがねのまちさばえ 福井県鯖江市(外部サイト)


