学習院輔仁会音楽部のあゆみ ― 戦後復興から五十周年へ

歴史

前編では、大正11年(1922年)の創設から、棚池慶助の時代の第一次黄金期、そして空襲で楽譜が灰となった昭和20年(1945年)の敗戦までを駆け足でたどりました。

本稿は焼け跡から再起した戦後の輔仁会音楽部が、混声合唱団の誕生、新制大学発足、そしてオーケストラの復興の波に乗りながら五ブロック体制を整え、昭和48年(1973年)に『学習院輔仁会音楽部五十年史』を刊行するまでの、およそ四半世紀の歩みをたどります。

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焼け跡から、もう一度

昭和20年(1945年)8月15日、敗戦。目白の校舎は空襲で甚大な被害を受け、長年蓄えてきた楽譜は灰となっていました。それでも、部員と門衛の人々が必死で運び出した楽器の多くが残されており、これが戦後復興の唯一の足がかりになります。

この年、後に四半世紀以上にわたって部長を務めることになる林友春が、五代目の部長に就任します。林は昭和3年(1928年)、旧制中等科二年生の時に入部した古参のヴァイオリン奏者で、自ら戦中・戦後の混乱を部員として体験した人物でした。彼の手記によれば、戦争に巻き込まれて一時消滅するかと思われた音楽部を、平岡・鍋島・鎌田ら三人がよく支え、戦後復興の道を切り開いたといいます。

翌昭和21年(1946年)には、救い出された楽器を手に、音楽部は早くも演奏活動の再開へと動き出していきます。

男女混声合唱団の誕生 ― 共学時代の幕開け

戦後の輔仁会音楽部にとって最大の転機は、昭和22年(1947年)です。戦前、宮内省所管の官立学校だった学習院は、私立学校として新たな歩みを始めました。そして、常磐会(女子部の同窓組織)の方や中高等科、女子部の生徒から合唱団創設への期待が高まりました。こうして誕生したのが、混声合唱団です。創部から二十五年、ようやく実現した合唱団でした。ただし、その実現はけっして簡単ではなかったようで、五十年史によれば「男子部の学生は女子部の先生を説得するのにだいぶ苦労した」と記されています。当時の社会通念のなかで、男女の学生がともに歌うこと自体が新しい挑戦だったのです。戦後は主に萩原英一が指導をしていましたが、合唱団の指導者として招聘されたのが、前田幸市郎でした。

この頃は演奏会場も整わない時代でした。後に大指揮者となる福田一雄は、当時を次のように振り返っています。

中等科4年の時、輔仁会音楽部の混声合唱に入りました。他にホールがないので四谷の初等科の正堂で、前田幸市郎さんの指揮のもと、オーケストラと合同で、ハレルヤコーラスや「流浪の民」、オペラ「椿姫」の抜粋などを演奏しました1

福田一雄「音楽部の思い出」学習院広報 第70号、2003

初等科の正堂を借りての演奏、それが、戦後の輔仁会音楽部の出発点でした。

新制大学とともに ― 五ブロック体制の原型

昭和24年(1949年)、学制改革により学習院に新制大学が設置されると、音楽部の組織は大きく変わります。それまでの高等科中心の体制から、大学・高等科・女子部合同で混声合唱をするようになりました。その後、昭和27年(1952年)9月に混声合唱団内のカルテットグループとして男声合唱団が誕生、同年11月に輔仁会のに混声・男声・女声の三合唱団が編成され、楽器陣のオーケストラと合わせて四ブロック体制が整いました。その後、昭和37年(1962年)短期大学女声合唱団が誕生しました。大学音楽部というひとつの大きな組織の中に、「オーケストラと四つの合唱団」の五ブロック体制という原型ができあがります。この体制は令和8年(2026年)に学習院女子大学が学習院大学に統合されるまで続きました。へと募集を停止創部当時、四百円ほどの予算で運営されていた小さなサークルが、戦後わずか数年で日本有数の音楽団体へと変貌したことになります。

前田幸市郎と宗教音楽の系譜

戦後の音楽部を語るうえで欠かせないのが、前田幸市郎の存在です。前田は中等科を卒業後、東京音楽学校に進んでおり、昭和17年(1942年)に声楽科を卒業、昭和19年(1944年)に研究科修了した若き音楽家でした。戦後は輔仁会音楽部の中核を担う指揮者として、長く部員に慕われました。後に酋長しゅうちょうの愛称で部員から愛されたと伝えられています。彼は昭和22年(1947年)から平成元年(1989年)までの42年間に渡り指揮者として音楽部と関わりを持ち続けました。

前田が情熱を注いだのは、宗教音楽でした。福田一雄が中等科四年で混声合唱に入部したときに歌った『ハレルヤ・コーラス』(ヘンデル『メサイア』)や『流浪の民』、オペラ『椿姫』の抜粋などは、いずれも前田の指揮によるものです。後に部報『ハーモニー』には荘厳ミサの演奏評も掲載されており、戦後の音楽部がオーケストラだけでなく、合唱を含む宗教音楽の世界へと活動の幅を広げていったことがわかります。

こうした長年の指導により、前田はやがて音楽部の永久指揮者と称されるまでに慕われていきました。

補足説明:酋長とは部族などの、かしらの意味です。(岩波国語辞典 第八版)

戦後を支えた人々

戦時下の苦境を経て音楽部を立て直した平岡通博・鍋島直誠・鎌田勇の三人に続き、戦後の発展期には多くの人材が登場します。

戦前から在籍し戦後の復活を担ったのが、清水昭(後のOB会会長・OB管弦楽団団長)、鎌田勇中村昭嗣らです。続いて、混声・男声・女声・短大女声の各合唱団の発展に寄与したのが、三井政夫笹村寛太郎海老原嘉雄らでした。

そして、戦後の音楽部を「見事に復興させた」と後年OB会会長の清水昭が語った人物が、後にOB会会長を務める宮地襄二です。戦前は中等科時代からトランペット吹奏で頭角を現し、社交家として学内外に名を知られた宮地は、戦後はその人脈と組織力で部の運営面を支え続けました。

次世代の登場 ― 福田一雄と岩城宏之

戦後復興期は、後の日本楽壇を背負って立つ若者たちが学習院に集った時期でもあります。

福田一雄は初等科入学前から絶対音感教育を受けた音楽の英才で、中等科二年で敗戦を迎え、「飢えたように音楽を享受した」と回想しています。混声合唱に入部した中等科四年のとき、先輩のオーボエの音に魅せられて自らもオーボエを手にしました。

その楽器がまた興味深いものでした ― 福田の言によれば、「日露戦争の際、バルチック艦隊のブラスバンドが使っていた戦利品で、明治天皇から賜わった」フランス製のオーボエだったというのです。歴史の波が、目白の部室の片隅にまで及んでいたことを示すエピソードです。

もう一人、戦後を象徴する人物が岩城宏之です。昭和23年(1948年)4月、小金井の中等科から目白の高等科に進んだ岩城は、その日のうちに音楽部の部室を訪ね、こう尋ねられたといいます。

「貴様、何の楽器弾ける?」 「木琴です」 「そう、それならトレモロをやってごらん」2

岩城宏之「学習院音楽部の思い出」学習院広報 第70号、2003

机を叩いてトレモロを披露した岩城は、その場でティンパニー奏者に任命されます。命じたのは後のOB管弦楽団団長・清水昭でした。

しかし、その練習風景は寂しいものでした。学校の楽器は戦災で焼けてしまっていたため、ティンパニー本体は宮内庁楽部から借用するしかなく、練習では岩城は机の上に白墨で大きな丸を二つ書き、それを叩いて代用していたといいます。ヴァイオリン3人、ヴィオラ1人ほどしかいない、復活したばかりのオーケストラの姿でした。

それでも、ここから岩城は指揮者の道へと進み、後にベルリン・フィルやウィーン・フィルを指揮する国際的な指揮者へと羽ばたいていきます。本人の言葉を借りれば、「ぼくの音楽家としての全ては、学習院音楽部から始まった」のでした。

部報「ハーモニー」とOB会の結成

戦後の組織化が進むなか、昭和29年からは部報が継続的に発行されるようになります。当初は『部報』『音楽部報』と呼ばれていましたが、やがて『ハーモニー』と改題され、部員相互のコミュニケーションと記録の役割を担う媒体として、現在に至るまで長く発行されていくことになります。

そして昭和33年(1958年)5月28日、輔仁会音楽部のOB会が正式に結成されました3。会場となったのは虎ノ門の共済会館で、当日の集まりには六、七十人が出席。会員総数は二百人ほどで、地方在住の卒業生まで含む規模でした。

OB会結成について、当時の林部長は次のように記しています。

こういう団体の結成は卒業生の間においては前から要望されていたのであり、音楽部の現役としても希望していたところであって、それが実現したことはまことによろこばしい

林友春「O・B会のこと、合宿のこと」 学習院輔仁会音楽部部報委員会編 『音楽部報 15号 』

OB会の発足は、単なる親睦組織の誕生にとどまりませんでした。会員の人脈を通じての切符販売、現役支援、合同演奏 ― 後の「先輩・現役合同演奏会」へとつながる土台が、ここでつくられたのです。

全ブロック合同演奏会のはじまり

戦後音楽部のもう一つの画期となったのが、昭和32年(1957年)の学習院開院八十周年記念文化祭にあわせて実現した、音楽部創立以来初の全ブロック合同演奏会です。

それまで、急増する部員と、目白の大溝に整わない演奏環境という制約のなかで、合同演奏会の構想は何度も委員会で議論されては断念されてきました。それが、開院八十周年・学制改革十周年という二重の節目を機に、ついに実現します。当時の委員長・小関忠徳は『部報第十一号』に、こう書き残しています。

入部以来、全ての先輩諸兄は合同演奏会をロ々に望んでいた。(中略)四つのブロックが一堂に会してお互いに成果を発表し合い、最後に先輩を含めての大合唱が出来るとは思ってみただけでも爽快な事ではなかろうか

小関忠徳「合同演奏会を控えて」学習院輔仁会音楽部部報委員会『部報第十一号』明幸社、昭和33年3月25日

この第一回合同演奏会以後、毎年の合同演奏会は音楽部の最大の年中行事となりました。現在でも学習院輔仁会音楽部定期演奏会として続いている演奏会です。

黄金期の指揮者たち

戦後の輔仁会音楽部に関わった指揮者たちは、いずれも日本楽壇の第一人者でした。「日本のオーケストラの父」と呼ばれた近衞秀麿(創部期から指揮者として音楽部を支えた先輩)、山田一雄(中等科時代からピアノで活躍した山田和男少年)、宗教音楽の権威前田幸市郎、バレエ音楽の第一人者となった福田一雄、そして国際的指揮者岩城宏之。これらのいずれもが、輔仁会音楽部の出身者あるいは関係者として、現役の指導にあたり続けました。

戦後すぐの混乱期から、現役学生がプロの一流音楽家から直接指導を受けられる環境 ― 戦前から続くこの伝統が、戦後の輔仁会音楽部の音楽的水準を支えていました。

創部五十年史刊行へ

こうして再起から四半世紀。昭和48年(1973年)、輔仁会音楽部は二つの記念事業をもって創部五十周年を迎えます。

一つは、毎年恒例の合同演奏会を五十周年記念祝典として盛大に開催すること。もう一つが、本稿が依拠してきた『学習院輔仁会音楽部五十年史』の刊行(巻頭言は同年12月11日付)でした。

編集の中心を担ったのは、かつて音楽部委員長を務めた毎日新聞社記者の古川和です。多忙な社務の合間を縫っての編集作業のもと、創部以前の高齢の先輩から現役部員まで、関係者を時代別に網羅して資料が集められました。

刊行時点で、音楽部は既にオーケストラ・混声・男声・女声・短大女声の五ブロックを擁し、それぞれが独立した演奏会と合同演奏会を持ち、各ブロックおよび合同の大合宿を実施する大所帯となっていました。宮地襄二を会長とするOB会が積極的に支援を始めたのも、ちょうどこの時期です。

林友春は巻頭言で、創部から五十年を経て輩出された音楽家たちを誇らしげに列挙しています ― 近衞秀麿、京極高鋭、有坂愛彦、山田一雄、前田幸市郎、岩城宏之、福田一雄。「学習院、とりわけ輔仁会音楽部の層の厚みと深さ」を象徴する顔ぶれでした。

おわりに ― 五十年史が遺したもの

大正11年(1922年)に三、四人の合奏から始まった輔仁会音楽部は、関東大震災、戦時下の「音楽班」改称、空襲による楽譜焼失といった幾多の試練を越え、戦後は新制大学・短期大学とともに五ブロック体制を整えて、五十周年を迎えました。

『学習院輔仁会音楽部五十年史』は、その半世紀の歩みを記録すると同時に、昭和52年(1977年)に予定されていた学習院創立百年史の編纂事業にとっての重要な一次資料ともなりました。林友春が巻頭言で「今日以後、又新たな音楽部活動が出発することでありましょう」と書いたとおり、五十年史は終着点ではなく、新しい半世紀への出発点として刊行されたのです。

それから半世紀後の今、目白からは依然として弦と管の響きが聞こえ、毎年「オール学習院の集い」では幼稚園から大学OBまで、時に四百名を超えるメンバーが一つのステージに立ちます。創部時の若者たちが目指した「学生だけで奏でる音楽会」の理想は、形を変えながら、確かに次の世代へと受け継がれています。


出典: 古川和 編『学習院輔仁会音楽部五十年史』(学習院輔仁会音楽部、昭和48年) より、第一部後半および巻頭言(林友春)を中心に要約・再構成しました。あわせて、『学習院広報』第70号(平成15年)所収の加藤耕義「音楽部の歴史と今」、福田一雄「音楽部の思い出」、岩城宏之「学習院音楽部の思い出」、清水昭「私と音楽部」、林友春「音楽部と学習院の一貫教育」、および『部報』第11号(昭和33年・小関忠徳「合同演奏会を控えて」)、『音楽部報』第15号(昭和33年・林友春「O・B会のこと、合宿のこと」)、『ハーモニー』第36号(昭和39年・林友春「音楽部学生時代の思い出」)の記述も参照しています。

学習院輔仁会音楽部五十年史 主筆について

古川和(引用:学習院輔仁会音楽部 大学男声合唱団史1952年~2007年)

古川 和(ふるかわ こたう)

昭和13年(1938年)1月9日生、東京都出身。昭和37年(1962年)学習院大学政経学部卒業。毎日新聞東京本社に入社、労働組合委員長、大阪経済部副部長、東京本社生活家庭部副部長を歴任し、本社編集員。

学習院輔仁会音楽部では、昭和35年(1960年)度委員長を務め、混声合唱団および男声合唱団に所属、主にセカンドテノールを担当していた。同年の混声合唱団責任者は細川護輝(近衞忠輝)。

主な著書

  • 『くたばれ悪徳商法: クレジット社会の虚構』日本経済評論社、1988
  • 『円切上げと日本経済』毎日新聞社
  • 『新聞を味方にする方法』日本経済評論社、1989

ほか

『現代全日本紳士録:全国編1989年版』より引用


参考文献

底本

  • 学習院輔仁会音楽部五十年史. 学習院輔仁会音楽部. 文洋社. 1973, 164p.

参考文献

  • 学習院百年史. 学習院百年史編纂委員会編. 第二編. 1980, 576p.
  • 加藤耕義.音楽部の歴史と今(学習院輔仁会音楽部の歩み).学習院広報 第70号.2003-7-01, p. 34-37
  • 学習院輔仁会音楽部OB会男声合唱団 編. 学習院輔仁会音楽部 大学男声合唱団史1952年~2007年. 2007, 116p.
  • 古川隆久. 戦争と音楽 京極高鋭、動員と和解の昭和史. 中央公論新社. 2025.(中公選書156)
  • 学習院輔仁会音楽部部報委員会『部報第十一号』明幸社、昭和33年3月
  • 学習院輔仁会音楽部部報委員会『音楽部報15号』、昭和33年7月
  • 学習院輔仁会音楽部部報委員会『ハーモニー36号』昭文社、昭和39年3月

関連記事

  1. 福田一雄. 音楽部の思い出. 学習院広報(70). 2003-05-01, p.36 ↩︎
  2. 岩城宏之. 学習院音楽部の思い出. 学習院広報(70). 2003-05-01, p.37 ↩︎
  3. 林友春. O・B会のこと、合宿のこと. 学習院輔仁会音楽部部報委員会編. 音楽部報(15). 1957-07-10 ↩︎